専門学校時代(6)新宿キャロット常連
オレは1988年に上京し、1992年9月にセガに就職するのだが、それまでの4年間は本当に毎日のように新宿キャロットに通い詰めた。
「オレは常連だった」と宣言するつもりはないのだが、店に通いすぎて短期アルバイトもしていたくらいなので、重度のリピーターだったとは思う。
同じような常連のみんなと意気投合して仲良くなり、近くのロッテリアでダベったり、誰かの家に遊びにいったり、みんなでコミケに行ったり、まあとにかくオタ充していた。
金がなかったオレたちの晩メシは、サブナードの炒めパスタ「ロビン」の大盛りが定番だった(ロビンは10年以上前に閉店してしまったのだが、確か暖簾を守っている店があったはずだとこの記事を機会にググって見たら、どうやら笹塚と永山に店舗がある模様。分裂しちゃったのかな?)
この当時、仲良くなった常連の中にYという高校生がいた。Yは現役の高校3年生で、学校帰りに新宿キャロットに立ち寄るブレザー姿のYをよく見ていた。
Yは、オレが住む新中野の近くに実家があり、当時にしてはオレと同じく「見た目にも気を遣うオタク」同士だったこともあって、よく遊んだ。
そのYが高校を卒業する、3月のある日のこと。いつものようにオレが新宿キャロットにいると、ブレザー姿のYが飛んできてオレに報告してくれた。「ウメちゃんウメちゃん、オレベーマガのライターに採用されたよ!」
その当時ゲーセン小僧だったら誰もが読んでいたマイコンBASICマガジンにてアーケードゲーム担当のライターを募集していて、Yはそれに応募して採用されたのだ。
Yは、当時の新宿常連の間で呼ばれていた「やんま」というあだ名でライターデビューし、同誌で約4~5年活躍した。やんまのベーマガ裏話は本当に面白く、「うめちゃん、今日取材で○○っていうゲーム遊んできたよ!」という毎月の報告が楽しみだった。
週末になると、お互いの自宅に遊びにいって朝までゲームで遊んだりと、楽しく過ごした。
その後、やんまはベーマガと大学を卒業してセガに就職、第3AM研究開発部に配属となり、アーケード版「ラストブロンクス」「電脳戦機バーチャロン オラトリオ・タングラム」でアシスタントディレクターを務め、その後、「タッチ・デ・ウノー!」などの開発を経てDC版「電脳戦機バーチャロン フォース」「同 マーズ」などのディレクターを担当した。
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