フリーライター時代(3)本格的にゲームライターに
その後、Hからはザ・スーパーファミコン(以下ザ・スー)の仕事は回してもらえるようになり、仕方なくスーパーファミコンを購入した。
当時はセガ信者でアーケードがゲームの頂点だと思い込んでいたので、スーファミの雑誌でスーファミソフトを紹介するというのはまったく気分が乗らなかった。
当時のザ・スーはファミコン通信などの有名ゲーム誌で名を馳せていた折原くんとか櫛田理子などがエースライターとして活躍していて、一方オレは、まったくの下っ端ライターだった。
なので「ウメちゃん、次はこのソフトの記事書いて」と編集から回ってくるゲームも、ここでは名前を伏せるがゴミみたいなクソゲーばかりだった。
当時、ザ・スー編集部は「BEEP!メガドライブ」編集部と並んでいたので、ザ・スー編集部で「メガドライブのほうが好きなんです」と猛アピールし、BEメガの仕事も少しだけ回ってくるようになった。
また、Hからはマガジンボックスという弱小出版社が刊行していた「ゲームボーイ」というゲーム総合誌の仕事も紹介され、そこでも記事を書くようになった(任天堂から発売された発売した同名の携帯ゲーム機とは無関係である)。
ゲームボーイは弱小雑誌だったが、ライターが少なくて総合誌でもあったので、メガドライブ、PCエンジン、任天堂ゲームボーイなどの紹介記事も回ってきた。
この1991年ごろは、徳間書店のファミリーコンピュータMagazine、アスキーのファミコン通信、JICC出版局のファミコン必勝本、角川書店のマル勝ファミコンが4大ファミコン雑誌と呼ばれていて、それにソフトバンクのザ・スー、英知出版のハイスコア、そしてマガジンボックスのゲームボーイという勢力図だったと思う。
また、ログイン、マイコンBASICマガジン、ゲーメストも人気があった。
1991年からライターを始めたオレはすでに後発だったので、大手に売り込みに行くスキルや経験もなく、創刊直後のザ・スーや弱小のゲームボーイくらいしか仕事がなかった。
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