フリーライター時代(4)マル勝でもライターを始める
1991年からライターを始めたオレはすでに後発だったので、大手に売り込みに行くスキルや経験もなく、創刊直後のザ・スーや弱小のゲームボーイくらいしか仕事がなかった。
3~4カ月がすぎた1991年の夏あたり、ライターの仕事も回り出したころ、ちょっとした異変が起きる。
前にこのブログでも紹介したが、オレは当時「ナムコ未来研究所ネット」に頻繁に書き込みをしていて、月イチくらいで飲み会も開催していた。そこで知り合った北山さんという女性に、「うめちゃんライター始めたんだったら、マル勝でもやってみない?」と勧められた。
マル勝とは、現在アスキー・メディアワークスの前身となる角川メディアオフィスが発行していたゲーム専門誌で、当時は「コンプティーク」「マル勝スーパーファミコン」「マル勝PCエンジン」の3誌があった。
北山さんは当時マル勝PCエンジンの編集で、オレをマル勝スーパーファミコンのライターに紹介してくれたのだ。大変ありがたく光栄な話だったが、とにかく当時のオレは仕事(記事のクオリティ)に自信がなく、そしてマル勝は歴史もあるゲーム誌で編集やライターもベテランが多いので、始めの頃は編集部の端のほうで小さくなって作業していた。
オレをよく使ってくれた窪田さんという編集さんが、オレがセガ好きというところを組んでくれて、メガドライブ系の仕事を回してくれた。のちにマル勝メガドライブが創刊となるのだが、そのときもたくさん振ってもらえてありがたかった。
オレはこのころ、MacintoshをPlusからSE/30に買い換えて、普段のパソコン通信もMacSE/30でこなしていた。当然、原稿もSE/30で書いていたのだが、編集部に泊まり込みになることが多くなり、その際はSE/30をキャリングケースに入れて原付バイクで編集部に持ち運んで作業していた。
当時マル勝の編集部には、のちにアスキーメディアワークスの常務まで昇進した渡邉さんなどが、ヒラ編集で攻略記事を作っていたりした。直接仕事をしたことはなかったが、ときどき世間話や雑談などで気さくに声をかけてくれてありがたかった。
また、オレをマル勝に勧めてくれた北山さんは、のちに電撃G’sマガジンの編集長に就任した、あの北山のり子さんである。
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